「超雑談力」とかいう本を読んでみた
「超雑談力 人づきあいがラクになる 誰とでも信頼関係が築ける」五百田達成
という本
1章を読んでるうちに、いきなり冷めてきた
2章の前半まで読んで、アホ臭くなってきてしまった。
これはくっそインキャが書いているのか、相当人間関係を拗らしている人が普通のことを自信持って書いてしまったのかと思ってしまう程。つまり、人生において当たり前にある様々な人間関係を経験してきた人にとったら自然と行う、または意識して対応してきている程度の話ばかり。これらを言語化するのはもちろん大切な事ではあるが、深呼吸したら落ち着きます、くらいのことしか書かれていない。
(笑)が所々に見られるが、著者がニヤニヤしながら想像して具体例などを書いているのが伺える。が、全てそれは筆者のこれまでに拗らしてきた脳内に刻まれた小さな体験談から生まれたものであって、普通に過ごしてきた人とは圧倒的に別視点。かなりインキャ視点で、必死にその場を終える、相手に不快に思われないためのしょうもない行動ばかり。
最終的にはやはり自分はインキャであったと明示されていた。つまり、そういうことだった。
3章も同様
4章に関しても、基本的に当たり前のことばかり。ただ「お〜」って思うこともやっと見つけた。自分だけの切り口を見つけるという項。これは意識したら自分の世界がまた変わるのかなと思った。これに関しては無意識にやっていたのかもしれないけれど、先程と同様、言語化によりもっと意識的に行動に移せるから面白いかもしれない。
あとは、タクシーでのビデオトーク。これに関してはまだ経験したことがないから、分からないけれど、参考にしたいなと思った。上司に限らずどこでも使えると思うし。
次に、話変わりますけど、の所。これに関しては、自分でこれから主導権を握る時や、話をみんなで前に進めなきゃいけないときは、ビジネス以外でも使える。
次に、相手のトーク抽出のところ。1つに焦点を当ててってのは大事。やはりビジネスでしか関わらないお互いが薄い関係だと焦ってしまうことってあるだろうから、その時に冷静に意識したら良いのかもね。
次に、教訓や学びのある話の、メモかな。姿勢見せるのは大事だし、なんならその後のアウトプットめっちゃ大事だと思う。研究結果も出てるしね。
次に、誘いに対して、とりあえず、行きたいです!いいですね!あとはイベント後のありがとうございました+電車混んでなかったですか。などのケア。まあ上司なら当たり前なんだけどもね。
最後に、悪口や噂話には手を出さない覚悟を貫くって点。大事だと思うけど、割と同調しちゃうタイプだからなぁと。
総括すると、この通りやってたら大したことないただの空気的な人間で終わると思う。が本当に話すのが苦手みたいな人にはいいのかな?知らんけど。
内容が薄いのは事実。ただ4章は参考になる点がいくつかあったかな。(笑)
オススメするかと聞かれたら、しない。
繰り返される議論
たまに日常で見かけるかもしれない屁理屈な議論について
例えば自分の決め事を押し付ける場面
A「俺はいつもこうしてるから、こういうルールでしろ」
B「人に自分のルールを押し付けるな」
A「お前こそ人にルールを押し付けるな」
これを繰り返したら
A「俺はいつもこうしてるから、こういうルールでしろ」
B「人に自分のルールを押し付けるな」
A「お前こそ人にルールを押し付けるな」
B「お前こそ人にルールを押し付けるな」
・・・
この思考だと永遠にこれが繰り返され終わらない
お互いが間違ったことは言っていないように思える
ただどちらかが間違っているのかもしれない
この発言ではどちらに勝算があるのか
それについて考える
それぞれのルールをルールA、ルールBとする
A「俺はいつもこうしてるから、こういうルールでしろ」
ここでルールAが適用される
B「人に自分のルールを押し付けるな」
ここでルールBが適用され、ルールAが消える
A「お前こそ人にルールを押し付けるな」
ここでBの矛盾に気づいたAの発言で、ルールBが消える
ということはAの思考が勝ち、ルールAが適用されるのか?
しかし、ここで最後のAの発言「ルールを押し付けるな」が適用されるならば、A自身の発言であるルールAも適用されなくなってしまうことになるだろう
つまりルールを押し付けるなという発言は、それぞれのルールをかき消してしまうものであり、Aの最後の返しは、Bの考えを手助けしてしまったということになる
従って、このような幼稚なやり取りの中では、Aには勝ち目がないことがわかる
結局は、人に何かをお願いする時は、先輩後輩関係なく、ちゃんと伝わる理由を添えてお願いしよ〜
「好き」の理由を言葉で表すことは出来るの?
「なんで私のこと好きなの?」とか、
「なんでゲームしたいの?」とか
様々な感情に対しての理由を言葉として確認したがる人がいる。
勿論理由なんて探せば見つかる。でもそれって理由と言い切れるほど感情を決定づけたモノでは無いことが多いと思う。
可愛いから、優しいから、趣味が合うから、、、
楽しいから、疲れないから、友達もしてるから、、、
言葉で表されるごく一部の理由はその場を凌ぐ、または自分を騙すためのモノでしかない気がする。
ゲームがしたい理由だって、勉強がしたくないから、指を動かすだけで成長ができるから、何もしたくないけどやるとしたら勉強よりは行動に移しやすいから。
などなど言葉に出来るものだけでも色々あるが、これにもまた裏には感情が潜んでいる。
勉強がしたくない→感情
成長ができると嬉しい→感情
結局また感情を言葉に表す事になってしまう
感情に対する理由を聞いて、納得してしまうのは愚かな気がする
感情に対する答えを言葉で感じようとするのは自分を騙して納得させて自分を肯定するためだけなのかもしれない。
そもそも感情を言葉で表現しようとする事自体が過ちなのかもしれない。
こういう感情を好きと表す事にした。
こういう感情を落ち着くと表す事にした。
そもそも感情表現語に明確な定義なんてない。定義はまた感覚で成り立っている。
例えば、好きを辞書で見ると、心が惹かれること、などが出てくる。
正直意味がわからない。
ここから言えることは
感情は経験の共有でしか伝えることが出来ないということである。
僕これ好き。私もこれ好き。
甘いから、食感がサクッとしてるから、、、
好きな理由は結局はそれぞれの頭でそれぞれの経験に基づいた感覚で共感する事になる。
ここまでがフと頭に思い浮かんだことなんだけど
昔の人って面白いなって感じた
和歌って感情の共感で成り立ってるよね
言葉を五感で想像して、そこに入り込む。まさに感情表現の交わし合いに適した方法な気がする。
豊かな感情を日本語の豊かな表現で